COLUMN
世界のアゴタクこと湯山卓の自己紹介
その他
2024.05.03
はじめまして、こんにちは!
AGOメソッド®︎セラピストスクール運営してる
「AGOglobal株式会社」CEO
世界のアゴタクこと湯山卓と申します。
AGOメゾット開発者の湯山は、どんな人なのか?
ぜひここで、私の事を話させてください!
1978年にこの世に生まれた湯山家の長男
父親は中小企業の営業部長で、母親は小学校の教師、5歳年上の姉。バブル世代の4人家族です
東京の中では緑が多くて、田舎と言われていた練馬という街の一軒家に住んでいた。
当時の家の玄関には2メートルある水槽に熱帯魚を飼っていて、繁殖が難しいと言われているエンジェルフィッシュなる高級魚を飼っていた。
家に水槽が、全部で6つくらいあったので、今から考えるとお金持ちな家だったんだろうなと思う。
ここまでの人生は順風満帆に見えたが
その後、なんだかんだあって、両親は離婚し、親父は、数年で家を売った全財産を失うことになる。
なんだかんだ書くと長くなりすぎるので、はしおりました。気になるほどは直接聞いてくれたら教えます笑
両親が離婚後、家族全員がバラバラで、急にジェットコースターの急降下みたいな人生になったけど、私は自分の事で精一杯だったから、そこまで関心もなかった。
興味がないのか、環境適応能力が高いのか
とにかく、そこまで悲観的ではなかった。
私自身は
小学生位までは、自分はどこか遠い宇宙の星の王子様だと本気で思ってた。
だから、いつ本当の両親が迎えに来るんだろうと。シンデレラみたいなことを考えていたんだな。アタオカみたいな時期があった
だからってわけじゃないけど、中学と高校は自分の居場所をいつも探してた
勉強できるわけでもなく、スポーツ飛び抜けてるわけでもなかったから、同級生に負けたくない一心で
毎日、気持ち的には行きたくない高校に、精一杯虚勢を張って通ってた。
唯一頑張ったのが、高校での無遅刻。
自宅から毎日片道1時間、往復2時間を自転車で通学してた。
雨の日も雪の日も通った。これは頑張ったと思う。
どんな事があっても継続する能力が、ここで培ったかも知れない
そして、大学受験に失敗して、浪人時代に、親の離婚で一気に貧乏になった。
半年だったか一年だったか、叔父さんの貸事務所に、母親とふたりで生活していた。
一軒家にしか住んだことのない私にとっては、惨めさよりもなんか「おもしれー」と思って過ごしていた。
今考えるとよくわからないプラス思考のアタオカだったのかもしれない。
浪人後、無事に成城大学に合格して入った。
池袋や新宿といった賑やかな街を経由して通学してたからか、遊んでいるか、バイトに行っているかで、当時は家にはほぼ帰らなかった。
バイト代を貯めて、大学が休みの時に、海外へのバックパッカーをしてました。
その動機は一人で海外行ってる俺ってかっこいいとか、他と違うぜーと言いたかったんだと思う。
今思うと本当にバカで、浅ましい考えの大学生だった
アタオカだったのかもしれない。
そんなしょぼい動機でも、海外に行ったおかげで
いろんな文化や、いろんな人たちに出会って、話をしていたら、自分という人間が本当にちっぽけな存在なんだなと感じるようになった。
うまくは言えないけど、他人の日常生活に、私は影響されないし、私が生きていくのに、他の人の人生を邪魔したり、影響することもないんだと気が楽になった。
自分の知ってる世界が広がって、ちょっとだけ自分も自分で居場所が作れるかもしれないと自信がついた。
大学卒業後、一部上場企業などのサラリーマン生活を経て、2008年、28歳の時に整体師へ転職した。
普通、整体師になる人って、学生時代に自分が怪我をして救われたとか、人の身体をよくしたくて専門学校を出て勤める志高い人が多いんですが、、、
私の場合は、「いかに稼げるか」「どうやって生きていくか」で他の仕事と検討して、整体師になりました。随分と邪な整体師ですよね。
整体師になりたての頃は、お金を稼ぐことが目的だったけど、やっていくうちにやりがいが出てきて、一人でも多くの人を助けたいという気持ちに変わってた。
ただ稼ごうと思って転職した整体師は、年収600万円のサラリーマンだった時と比べたら1/3くらいの200万円くらいまで下がってました。
でもこの時は、整体師になるために通ったスクールでの費用がまだ300万円残ってたので、新車で買ったMAZDAを泣く泣く売ってお金を作った事を覚えてます。
「何かを得ようとした時には、何かを失う覚悟がいる」となくなったおばあちゃんがよく言ってた事をよく思い出してた。
人はキャパに限りがあるから、抱えすぎると溢れててキャパオーバーしてしまうから、その前にに手放すか、キャパを広げるかって事ですよね。
まっでも整体師で年収が落ちたとか、スクール費用を払うまでに車を売ったのなんて序の口です。
私が入った整体院時代は、めっちゃめちゃ辛かった。体力的にも精神的にも人生で一番追い込まれた15年間だった。
何で鍛えられたかというと
当時の社長がマジでやばかった。
東北の古豪野球部の出身で、
大手企業の経営企画にいた人だった。
経営センスの塊であると同時に、部下にとても厳しいでした。簡単にいうと田舎のワンマン社長で、自分のやり方以外は認めない人だった
違う意見を言ったり、思っていたような結果が出ないと、烈火のごとく怒る。怒るだけならいいが、手も足も出る。
左の鼓膜を破られたり、肋骨を折られたことがある。
施術している現場で隅に呼び出され、腹を殴られたり、客が来る直前まで顔を殴打するものだから、急いでトイレに行って顔を洗って腫れがバレないようにしたて施術をこなしてました。
(訴える時に証拠に使おうと)肋骨折られた時の写真
また、ある日、何かミスをして、雨の日に外で5時間正座させられ、立てなくなったこともあった。
どんなに酷くても、病院に行くことは出来なかったし、次の日に予約があったから、出勤して施術をした。
数えきれないくらいの暴力で、さすがに訴えてやろうとも思いましたが、手塩かけて育てた部下が、同じ目に合わせる事が忍びなかったし、
絶対に耐えられずに辞めてしまうと思ったから、受け皿としての役割も補ってた。
もっと言うと、業務内容は
実質的拘束時間は1日10時間〜15時間。
ほぼ全期間15年続けていました。
そして、
朝7:00から午前様という生活が週に4日あって、身も心もずーっとボロボロになった。
そんな中で
一度だけ、施術中に大舟を漕いでしまい、クライアントさんから指摘された。 本当に謝りまくって何とか許して頂いたけど、今でも懺悔してます。
そんな心身ともに疲弊してる月日を、ずっと耐えぬける人間はそう多くはないと思います。
ある日、私は0時過ぎまでお店でセミナーの資料作りをしてから、一人暮らしをしていたアパートまで帰ろうと、店を出た左側に、ツツジの植え込みが10メートル続いてる道を歩いてると
いきなり真っ暗になった感覚で、気付いたら、植え込みに倒れ込んでいました。
意識が戻るまで、小一時間はあったんじゃないかと思うくらい長い時間に感じた。
でも実際に起き上がるまでに多分1分もなかった
「車に轢かれた感覚」ってこんな感じかなとか、なぜかケガより倒れた時の感覚に対して感想が湧いた
意味がわからないですよね 笑
そこから段々と我を取り戻し、頬にヒリヒリとした痛みを感じました。枝が目に刺さらなくて、不幸中の幸いでした。
それから帰宅して、顔をよく洗って、消毒。翌朝、身体中が痛かったんですが、普通に出勤しました。
そして31歳のときに 院長就任 ここからが、さらに地獄の先にあった地獄。
まだ続くのかよって
5名の年上を含む部下の2店舗を統括してた私は、集客から整体師向けセミナー開催採用、教育、給与計算、助成金申請など一手に担いながら、施術のペースを落とすことなく、無休の週7日間働いた。
水曜日の定休日には、経営会議と称された会議に東京まで呼ばれて一日中、叱咤されながら会議をして
行き帰りの社長(ベンツ)の運転手役もしてました。
社長としては、鞄持ち的な扱いで学ばせてやると言う感覚だったのかも?笑
あっ思い出した!
一度、車の中で首都高を運転中に、助手席からぶん殴られて、事故りそうになったこともあったな。
それから、36歳で取締役へ 長男が生まれてからは、月収も60万になり、お金は多少余裕が出来たものの、多忙をさらに極めていた。
子育ては全部奥さんに任せっきりで、子供の幼少期なんて、ほぼ記憶にない。
取締役になっても仕事が変わった訳ではなくて、施術も経営も雑務も増し増しになって言った事は言うまでもない。
(この時期は厳しすぎる環境で写真がほぼない…)
とまっ、ここまで来ると、さすがに、もう限界が来て、施術家としてやってはいけないと思い、部下が育つまで見守って、一年後には整体師は二度とやらないつもりで退職しました。
とここまでめちゃくちゃ酷い話ばかりだったね 笑
ここまでやれたのはなに?
何が私を止めたのかって?
それはクライアントでした。
過酷かつ理不尽な毎日のなかでも
たった一つだけ
その一つの救いは、クライアントには恵まれた事だった
私は延べ施術回数7万人超え、1日で最高40名を施術。
医者の腰椎ヘルニアを完治させたり、
間欠性跛行の狭窄症の人を歩けるようにしたり、
半身麻痺で食事の介助が必要だったお爺さんにスプーンを使えるようにしたり
トイレに毎回付き添いが必要だったお婆さんがトイレまで一人で言って帰って来られるようにしたり。。。
うつ病で大学を休学していた男の子を心と身体の両面で健康になるまで施術をして、復学もさせたりしました。
他にも就職報告をしにきてくれたり
医者や病院で、「もうできることがありません」と言われてきた方々を劇的に回復させる事ができました。
クライアントと毎日本気で、汗だくになりながら向き合えた時間が、本当に本当に心の奥底からかけがえのないものだった。
つい最近、亡くなられた83歳の農家のお婆ちゃん。最後まで「先生、いつもありがとう」と言ってくれた事をら思い出す。
お婆ちゃんは、私が整体師になりたてからの頃から通ってくれていて、それから、15年間通い続けてくれた。
私は「このお婆ちゃんが亡くなるその日まで、畑に立っていられるように頑張ろう」と心に決めて、一生懸命心身に寄り添った。
結果的にそうなって、施術者としては本望だった。
だから、整体師をもう2度やらないと心に決めても、クライアントたちの笑顔を思い出すと、また気持ちが揺ぐ
そして、「絶望の中から救ってくれた」と感謝が絶えなかった事が、私が支えられてたクライアントたちのためになにかできないかと考えるようになっていた。
結果、自分には整体師で人を助ける仕事しないと考え直した。
40歳の時に、総武線の亀戸駅から徒歩5分くらいのところに、健美salon201を開業。
金無し、客無し、人脈なし。
ないない尽くしで始まった。
ちょうどGWの頃の開業だったので、都内は帰省する人が多いだろうと鷹を括って、7日間限定、痛みが取れるまで何回でも無料施術キャンペーンを打った。
これが当たった。というか死んだ。
そんなに来る訳ないと思っていたら100名以上が集まって、息もつけないほど、忙しかった。
これが経営的にはよかった。
無料期間が終わっても、気に入ってくれた人が8割ほど有料施術を受けに来るようになった。
初月で売上100万円を超えることが出来た。
その後も、口コミが絶えることなく、最高月商300万、悪くても200万円を切ることは無くなった。1人でだけで達成させた
そうしていたら今度は、手技を教えて欲しいという人が現れた。
一人で施術を続けたところで施術できる人数には限りがある。
もっと15年間で培った技術の極みをみんなに教えて広げてくれたら、救われる人も増えると、だったら教えてみるかと思った
そんなタイミングで知り合いからスクール事業の同業者を紹介してもらった
代表も私の顎関節の手法に興味を持ってくれ、
公演するから、ゲストとして出てほしいと言われ、話をしたところ、そこにいた50名ほどの生徒さんが全員習いたいと言ってくれた
その後もその話を聞きつけた人が集まって最終的に100名を超える生徒さんに施術を教えることに。
スクールをやることは考えていたものの、急すぎて何もなかった。
兎に角、日程をつくって一気に教えると言う半年だった。
ようやく一通り教え終えた頃に代表からスクールの技術専任講師をやってもらえないかと言うお誘いを受けた。
当時で500名近くの生徒がいるところだったので、教えるとなるとかなりの時間を使うことになる。
いくらでやりましょうか?と聞いたところ、折半でいいと言う。年商数億だったから、心は揺らいだ。立場も代表と対等になると言うことだった。
でも、一つ問題が。それは手法の考え方の違いだ。
エステ出身の代表の手技は、擦ったり、揉み出したりと言った手法
一方、私は整体の出身で骨格をベースにつくられている。全くもって考え方が違う。
そして、自分が天塩にかけて作った手技が、代表のブランドに取り込まれるのもゴメンだった。
結局は別々の道を選ぶ事にした私は、
このスクールでの収穫はものすごく大きかった。
上手くいっていたところ、いっていなかったところをすべて、現在の自分の運営するスクールに活かすことが出来たからだ。
それから3年で生徒は延べ約300名以上輩出。
女性に経済的、時間的自由を手に入れてもらうためのセピストスクールAGOセラピストスクールを主催してい
る。
AGOメゾット®︎について書きました。
未経験から6ヶ月以内に月商30万以上、年商1000万円を超えるスーパーセラピスト、歯科医、理学療法士、柔道整復師など国家資格者なども輩出した。
確かな技術を少しでも広めたい思いで
書籍「1日1分アゴ体操でうつがみるみる消えていく」も出版した。
Forbes Japanに年商1億円の整体師湯山卓のインスタ活用術の記事としても掲載された。
世界で活躍できるセラピストを育成する。と言う志でスクール運営をさせていただいてます!
最後まで、自己紹介を読んでいただき
心から感謝いたします!